昭和43年 7月2日朝のご理解
ご理解62節を読んでみましょう
ご理解62節 昔から人もよけれ 我もよけれ 人より我はなおよけれというておるが 神信心をしてもわが身の上のおかげを受けて後に人を助けてやれ 神信心も手習いも同じこと 一段一段進んでいくのじゃ にわかに先生にはなれぬぞと、・・・・?ますね。
にわかに先生にはなれんぞ、と一番最後のところを、これはお道の教師になるとかそういうことではないんですね。先生というのは、結局先に生まれるといいうのですから、えーやはり先輩、先達と申しましょうか。ですから我が身の上にまずおかげを受けてとありますから、私がまずおかげを受けなければならんのですけれども、ね、えー全てに点におかげを受けておらなければ、人には話せないというようなことではないんですね。我が身におかげを受けたことを、始めてお導きを頂いて、ね、例えば病気なら病気のおかげを頂いた、そんなら、もう我が身におかげを受けたんです、ね。
人間関係の悩みでお参りさせて頂いて、解決のおかげを頂いたらもう、自分がおかげを受けたんですね。経済なら経済の面でもどうにも出来なかったところを、不思議にお繰り合わせを頂いたら、もういわば助かったんですから、おかげを受けたんですから、それを人に伝えて人が助かっていかれる、同じようなことで難儀をしておられるような方がおるならば、ね、それを伝えて信心を、真の信心をさせると、いうのがその前の61節にある神になるのぞ、とまで仰っておられますね。
61節の途中、神心となりて丁寧に話をしていくのが真の道を踏んで行くのぞ、と仰る。
金光大神が教えたことを違わぬよう人に伝えて真の信心をさせるのが神へのお礼ぞ、これが神になるのぞ 神になりても神より上になると思うな というように教えておられます。
ですからにわかに先生にはなれぬけれども、ね、目指すところはやはり一段一段と信心が進んでいくのじゃと仰るように、一段一段進んでいかなければならない。
ね、それはどういうことかというと、信心とはわが心が神に向こうていくのを信心というのじゃと仰るように、一段一段いわゆる神心となりてと仰る、神心、いわゆる、神に向かって進んでいく、一段一段。
これは私思いますのに、最近特につよく思いますことは、もう私たちはね、んー金光様の御信者だということの自覚ですね、天理教の信者でも無からなければ、キリスト教の、仏教の信者でも勿論無い、私は金光様の御信者だというね、教祖へ対する帰依者なのだ、教祖の神様への帰依者であるということ、ですから、どこどこの宗祖がこういわっしゃった、どこどこの教祖はこうあったといったようなことなんかは、これはもう参考にも必要じゃないことになりますね。
もうどこまでも、1から10まで教祖のおかげを受けれたその後、ね、教組のおかげを受けてこられたところの、その道すがらというもの、または金光大神がいつまでも尽きぬおかげを話にして残しておくのぞ、と仰る、尽きぬおかげの頂ける教祖の神様の教えて下さることを、身を持ってこれを頂いていくという以外には無いのです。
ね、ですから金光様の御信心を頂くなら、もう金光様の教えて下さることをね、聞かせてもらい、守らせてもらう以外に無いのです。
してみるとですね、私共が今まで身に付けてきたね、ある意味での道徳とか、道徳的な考え方ですね、いわば少しばかり付けてきた、身に、知識ですね、そういう知識とか、自分が道徳的なこの身に付けてきたことなんかは、いっぺん切り離さなければだめです。
ね、もう純粋にです、教祖の神様が教えてくださる御教えというか、言葉の中にですね、自分が入ってしまわなければ駄目です。
よくその、道徳的な、あー、この判断で信心をする人があるんですよね。これは間違いです。ね、その道徳的なものがね、教祖の教えて下さることと、ね、おんなじものになるところまで同化すればこれはまた別です。
ならよその宗祖、宗派というようなものでも、教祖の教えて下さったことを、いっぺんマスターしといて、は、ここの教祖が言うておられるところは金光大神はこう言うておられるんだ、というふうにですね、いう意味ならいいです。
ですから、これはどこまでもね、もういうなら一字一画一点に至るまで、この御教えに私共が、その順応していくというかね、従おうていくという、この純粋さが必要ですね。
そこでこうやって、私が正確にですね、一字一画を間違えないように、最近では教典を頂かして頂きながら、ね、そしてこの文字、字句の裏に潜んでおる御真意というものを、まあ、頂いていこうとしておるのが、現在の合楽の信心の進め方なんです。
ね、だから昔から人もよけれわれもよけれ 人よりわれはなおよけれというているがと、いうことなんかは、、なにかこう自分さえよかれば良いといったようなふうに聞こえるですがね、けどもここんところは、次のところを強張されたようなお言葉なんですね。
神信心をしても、我が身の上におかげを受けて後に人を助けてやれ、と仰るね、こうまず自分がおかげを受けるということは、人が助かることのためにもです、自分が助からなければいけん。
人にお話をして上げる、その人のために、自分が先生になるためにも、これは、んならまず人というよりもね、他人というよりも、自分の家族でもいいです。主人が信心する、家族が信心が無い、家内が信心するけれども、子供が信心が無い、主人が信心が無い、一番その身近な者でもですね、まず信心の自分が先達にならなければいけん。先輩、先生にならなければならない。そして自分が心の上におかげを受けておることをです、お参りさせていただくようになったら、第一ここが俺がおかげを受けた、ね、不思議なことじゃろ、こう言うふうにおかげが展開してくる、自分の心がこういうふうに変わってきたら、そげなことは取り越し苦労はいらんぞ、私も信心の無い間は取り越し苦労をしよったけれども、取り越し苦労が無くなった、無くなっただけではない、こういうおかげを頂いてきたじゃないかと、それをたとえばなら、家族の者でも話して上げなければいけません。
それを丁寧に、それを家族の者だからというて、丁寧じゃ、欠いだらでけん。それを丁寧に話してやるのが、神へのお礼であり、真の道を踏んでいくのぞ、と仰る。
ね、ですからその真の道を踏んでいくのです、それは。ね、しかもそれが神になるのぞとまで仰る。ね、わが心が神にいよいよ向こうていくのだということ。
ね、我が身におかげを受けて、いや、私が、まいっちょほんとにこう、儲け出してから、じゃなから人に話されん、病気なら私が全快してしまわなければ、例えば自分がその、そういうことではないわけなんですよね。何べんかお参りをする、喜びの芽が出る、ね、そのことを伝えるんです、そのこと以上のことを伝えることはいらん。ね。
我が身の上におかげを受ける、受けたことを話して、その人もやっぱり自分と同じように助かっていけるならば、やっぱ話さなければおられないというところにね、信心が、ところが、ここににわかには先生にはなれぬぞ、と仰るから、まぁここんところをですね、間違えちゃならんです。もう先生なんかになろうちゃ思わんから、ということになってくるとですね、もう全然、人に話も出来なくなっていくです。
ね、もう私はそげん、あーたもう先生なろ、なろうちゃ思うとらんから、ね、ここは、どうでも先生にならねばならん、にわかに先生になられんて、一段一段進んでいくので、一段一段進んでいってですね、信心のない人よりも、自分は先生、先に生まれておるのだ信心が。
私はそれが親切というものじゃなかろうかと思うですね。例えば取り苦労をしておる人があるですね、もうほんに信心がないもんばっかりは、もうどうしてこんくらいなことに腹が立つじゃろうかということがあるですね、そう私もいっちょん変わらん、やっぱ腹が立ちよった、と、けど信心させて頂くようになったら段々おかげで、ね、腹をたてんですむようになった、おかげで取り越し苦労が無くなったと、自分の助かったことを、それを丁寧にです、その腹を立てておる人、または取り越し苦労をたとえば、しておる人にです、自分のおかげを受けておることを話いく、その人がね、信心をするようになる、せんようになる、それはもう別ですよ、ね。そこに回心を示せば、その人が助かっていくわけですから、ね。
自分のおかげを受けたことを、実感を持って、しかも丁寧に、しかも神心となりてということは、本当にそれを伝えなければおられないという心が、私は神心であり、親切だと思うんですね。
だから、そういうたとえば、思い方にならないから、お互いの信心が進まんのじゃないかと思うですね。人にそげん言われん、例えていうなら、あんた、信心しよっても、腹かくじゃんの、あんた、信心しよるけど、取り越し苦労ばっかりするじゃんの、というようなことでは、ね、けどもこれをたとえば話でもしていかならんというとです、その手前にでも、やはり本気で信心にならなければおられませんです。ね、
にわかには先生にはなれんぞ、ね、先生になろうと思わんと初めから思うとるもんじゃから、全然その、人に伝えるだんのこっちゃなか、同時にそういう漠然としたことではですね、信心もだからひとつも、一段一段進んでいかない。
ここに一段一段進んでいくのぞ、とこう仰るけど、一段一段進んでいかない、ね、人に伝えたこと、これは不思議ですね、いっぺん自分が習ったことを人へ本気に丁寧に教えてごらんなさい、もうそれが自分のものになるです。
これは一つ体験してごらんなさい。これは他のけいこ事でも同じことですよ。ね。
自分が、ね、たとえばお茶ならお茶でもいいですよ、習ってきたことをね、うちでまいっぺんやってみると、もう忘れてしもうとる、覚えとったごとあるけど、忘れとる。だからそれをその予習、復習というのがいるんですね、復習する、そして分からんところがあるから、またあくる日、ここは忘れとりましたというて、尋ねると、もうこんだ自分のものになる。自分のものになるから、今度はそれを、今度はあーま、かわりの師匠さんをする、ね、自分が覚えたことをです、今度はまた、次の素人の人に、また、自分よりも未熟な人に教える。完全に自分のものになる。これは不思議ですよ、ね、ですから、みなさんがね、おかげを受けたことをですね、人に伝えるということによって、確かに一段一段進んで行くということが、いえますよ。
それを漠然と十年信心しよりますというてもですね、それを人に伝えないから、いつまでも自分のものにならないんです。
ね、一段一段進んでいくという信心、ね、しかもそれをですね、自分がおかげを受けたことを、自分が助かっていきよる姿を、もう完璧に助かるなんてということはね、それは、まぁ夢でありましても、いうならば、それでも完璧を目指さなければいけんです。
ね、私共、金光様の御信者はどこまでも生神を目指すんですよ。そげん生神様にならんでんなんてんならん、生神を目指さなければいかんのです。ね、そして一段一段自分でおかげを受けたことをです、人へ伝えていく、それを繰り返し練習をしていくいちに、そのことが自分のものになる、だから一段一段信心が進んでいくんです。
漠然と十年、二十年信心しよってもですね、話を聞くばっかりでですね、あー、私は昨日ある方に話たんですけれど、あの、昨日大変おかげを受けたとこう言うのですよ。ね。
大祓い式のことを言ってるわけす。だからここで次々と、だから今度、次の御大祭でしょう。次は夏の大祭、もうそのね、やっぱその大祭がね、春秋の大祭、ね、それに、夏の大祭、冬の大祭ありますよ。やっぱ大祭と銘打ってあります。ね、けれどもこれは特にここの場合は、その大祭の性格というのが違う、ね、ですからですね、私共はそこにいつもこう焦点を置く、例えば大祓式、ね、それをいままでは大祓式というようなことは、金光教的なことではないというので、ね、交通安全、または、あー、はやり病、ね、悪疫予防の祈願祭ということに、その焦点を置かれてあるんです。ね、ですからそのことだけに焦点を置いてのいうならお祭り、夏の祈願祭は、ね、桂先生が九州中に、大繁盛を願われた、御本部の御造営を思い立たれるに、先立って九州中の産業、農業、商業、そういう全てにわたっての大繁盛を願われた。
だから、いつものもとは申しません、むこう何年間というょうに年限を切ってから願われた。そこに始まったのがあの夏の祈願祭なんです。ね、ですからもう私はその夏の祈願祭を、もうどこまでも祈願祭、ね、諸事繁盛のための祈願祭、ね、春の大祭は教祖大祭、ね、秋の大祭は教祖大祭、四月の大祭は天地の親神様の御大祭だけども、これは私共が年に二回の御礼のお祭り、天地の親神様に対する、教組の神様に対する、ね、十二月に奉仕される報徳祭ね、いわば冬の御大祭、ね、これも九州の御大祭といわれるように、桂先生が二代金光様、四神金光様のご恩徳を称えられるたびに、もう桂先生が思い立たれて、御本部で御大祭を仕えられたのが、報徳祭の始まり、ね、四神様の御大祭とだから、私は申しております。
それをですね、その大祭はみんな同じもののように思うとる。
毎年毎年、拝まして頂きよってから、それをおかげ頂きよってから、自分で知らないわけですね、それを、大祭はこんだ、こういう大祭があると人に伝えておらんから、覚えんのですよ。
ね、大祓式にはどうでんこうでん、去年は私はおかげ頂いた、お宅に自動車があるなら、どうでんこうでん御祈念をしてもらいなさい、お祓いをしてもらいなさい、ね、悪い病でん患らわんごと、去年もお参りさせておかげ頂いたから、お宅でもお参りしなさい、ね、六月三十日のお祭りはこういうお祭りです、というて話しておれば、そのことだけは自分のものになるです、例えば。それを話しておらんから、漠然としておるから、何のお祭りやらさえわからんなり、しまえた。
ね、教えにおいてはなおさらのこと、ね、これはどうでも、ね、一段一段信心を進めていくためにです、私どもが習うたことを、ね、人へ伝えていく、または、自分がおかげを受けたことを、ね、それを人に伝えなければおられないというのが、親切であり、神心となりてと仰る、神心なんです。
ね、そこに人に伝えるところに、この人はおかげを受けても受けなくても、それが一段と自分のものになっていくのである。
ね、そしていわば10のことを覚えたら、10(?)の先生になれるわけなんです。
そしてなお、一段一段進んでいく自分の信心というものを検討していくためにですね、一段一段自分が、信心が自分のものになっていく、自分が一段一段いわゆる先生に向かって、ていうか、生神に向かって進んでいきよるとこう思うておることは有難いがね、それを検討していく信心。ね、いわゆる自分を本当に見極めていくていうかね、これは自分のものにいよいよなったかということを確かめていく、ね、そこにです、いわば信心の中身が出来てくれば出来てくるだけ、ね、いわば先生になっていけばいくほどに、または先生と呼ばれれば呼ばれれるほどにです、いよいよ実意丁寧神信心がでけてきよらねばならないことになります、
自分はもう先生株だと、というておるのにです、ね、ピョンと上に頭をあげておるなら、これはほんなのもんではない、と悟らにゃいかんです。それこそ稔れば稔ほどかがんでいく稲穂のようにです、いわゆるお道の信心でいうならば、実意丁寧神信心がいよいよ、いよいよ地を低うしていく内容というものがでけておるかどうか、ということを確かめていかなければいけません。
ね、先生を目指すと同時に、先生になっていきよる自分の姿がです、いよいよ有難うなっていきよる、いよいよ重みを増していきよる、いよいよ頭が地に付いていきよる、ね、だから先生になるということは、そのようなものだということ。
そうでしょうが、これは他のけいこ事とは違うですもんね。やっぱりだから、他の稽古事はそこ我全然違うとこですよ。ね、習うて来たことを覚えて、それを新たな人に教える、それが自分のものになる、なってくるといわゆる自分が先生株になる、すと皆から先生と言われるようになる、そすと、そのいわばお弟子さんである後輩であるならばです、ね、それはどうしても、はー、その、なんちゅうかね、それはいうなら、いわば軽うみても、いいようなふうになっているわな、こういう稽古事は。ところが信心ばかりは反対なんです。ね、先生株になればなっていくほどに、ね、もうその人よりも地が低うなっていっとらなければおかしいのです。
わからない者よりも、いうなら中身がでけておるのですから、やはり自分の心の中には、ね、相済みませんとか、ね、、私のようなものがとかいうようなものが、段々それがでけていきよらなければ、先輩とは言えない、先生とは言えないのであります。
そこに信心者の魅力というものがあるんじゃないでしょうかね、本当は。
ね、これはもう昔の話なんですけれどね、今は違いますよ。佐田さん達が熱心に御信心なされる、ね、もうおばあちゃんと奥さんがああして熱烈型ですから、・・?ご主人の方は石橋を叩いて渡るような生き方ですから、あの、テンポがあわないわけです。そいでその、奥さんやらおばあちゃんがはがいがんなさるわけです、ね、いわゆるおばあちゃんやら奥さんのほうが先生格、それでまあ、皮肉を交えてでしょう、お前はもう明神様じゃから、ね、そういうことではいけんでしょうが、もう明神様にはかなわんちゅちから、酔うたとき言われるちゅう、ね、ですから先生格になればなほどね、いわばその人よりも自分は地を低うしておられる内容ですね、形じゃない、それが出けていきよらなければですね、自分は一段一段と信心が進んでいきよるのじゃない、先生を目指しておるのじゃない、生神を目指しておるのじゃないということを分からなければいけません。
ね、同時に一段一段信心を進めていくためにね、我が身の上におかげを受けて後に人を助けてやれ、後にそれを人に伝えていくということがです、ね、私はその前のご理解にそれが神になっていくのぞ、と仰れば、それが真の道を踏んでいくのぞとも仰るのであるから、ね、真の道を踏んでいく意味合いにおいてもね、神に向かって進んでいくという意味合いにおいても、まずわが身におかげを受けたことを、こりゃまず家内にでもいいんです、ね、子供でもいいんです、ね、それを丁寧に伝えていかなきゃいけません。
それが真の道を踏んでいくのである。ね、だからそれに話だけは、こんどはもうやはり自分のものになっていく、ね、話しながらちょっとまだぎこちが無いものがあるなら、もういっぺんよく習って、またそれを伝えていく、ね。
段々信心を十年、二十年続けていってもですね、ひとっつも信心が進まない人がある、それは、まだ、私どんは、初めから先生になろうとは思わんもんから、ただおかげさえ頂きゃ、と言う生き方ではね、いつまで経っても本当の行き方になってこないということです。ね、一段一段信心を進めていくという生き方、それには今日私が申しました、ね、それを神心となりて、人へね、伝えていく、それこそがおかげを受けた、いわゆる自分のこれはもう神様へのお礼の、にもなるわけ、ね、神へのお礼であり、同時にそれが神になっていくということ、同時に真の道を踏んでいくということもある。
大体こういうところをですね、私共は非常に軽く見とったですね。例えば話ていくのが真の道を踏んでいくのぞとか、ね、人に話していくのが神になるのぞとかいうような言葉をですね、非常に軽うみとったんです。けども私は始めに申しますように、私共はどこまでも金光教の信者であるということ、それには、教祖の教えて下さることを本気でいただくこと、は、このくらいのことで、真の道を踏んでいくのならば、このくらいのことが、神に向かっていくのならば、例えば伝えなければおられないのであり、ね、真の道を踏んでいかなければおられんのであります。それが自分の実にもなっていく、一段一段進んでいくことにもなあるのである。
ね、そして進んでいきながらもです、自分というものを深く反省させて頂いて、はたしてどのくらいな、本当のものが出来ていきよるかということをです、ね、どのくらい自分がへりくだれておるかというようなことをです、確かめながら信心を一段一段すすめていか無ければならんと思うですね、どうぞ。
大坪かよこ
2005年4月25日